節目の3月

急に暖かくなりました。聞くところによりますと、桜の開花が早まるという情報が耳に入って来ました。

 

今回は、節目の3月と題しまして、3月にまつわるエピソードを紹介します。

 

私の両親は戸籍上の入籍日が3月です。

結婚式はもっと前に挙げていたそうなのですが、何故か、入籍の日はそれよりもずっと後になってしまったそうです。

 

そして、母の誕生日が、これまた3月です。

昭和4年の生まれですので今年は84歳になるのですが、ご近所でも評判の若々しさとバイタリティーがあり、孫の面倒を見てくれたりと、夫婦共働きの私達をいつも助けてくれています。本当にありがたいことです。 

 

母と子供たちとの関係を見ていると、孫の力や、三世代家族の大切さというものを感じます。母はニンニク系のサプリを飲んではいるものの、やはり、何と言っても、孫が若さと活力の源になっているようです。

 

更に、父の命日が3月です。

 

他界して今年で4年になるのですが、母の誕生日の翌日、早朝に父は眠るようにして亡くなりました。その日は、息子の卒業式の3日前。卒業式では私も来賓挨拶をする事になっていたので、いろんな意味でてんやわんやになりました。

校長先生に報告し相談したところ、予定通りやって欲しいとのお話をいただいたのですが、当日は他のご来賓の方々とのご挨拶が、「卒業おめでとう・・・」と「この度は・・・(御悔みの言葉)」とが入り混じり・・・。

でも、心温まる卒業式になり、お陰様で無事に終えることが出来ました。

 

卒業式の数日後、諸事情から、仏式による一般葬を行ないました。

市長をはじめとする、警察署長、教育長等、市を代表する方々や教会関係者の方々が大勢参列してくださり、カイン圏とアベル圏とが一つとなって、父の旅立ちを見送っていただくことができました。

この日も3月でした。

 

さて、ここからは、直接、私自身にまつわる3月エピソードです。

 

私が初めて統一教会食口(信徒)と話をしたのが1982年3月@吉祥寺の街頭でした。この時は、サークルの友人が見知らぬ人と話をしているので割り込んで、ああでもないこうでもないと言ったような気がします。記憶の片隅ですが。

後で、その見知らぬ人が統一教会食口だったとわかったのですが、いろんな意味で申し訳ないことをしてしまったと悔い改めました。

 

次に、私が学生部に入教し、アパートでの共同生活をし始めたのが30年前の1983年3月でした。3人か4人(どっちだったかは忘れてしまいました)での共同生活だったのですが、目覚まし時計が幾つもあって、朝になるとあっちでもこっちでも鳴り響いたのが目に浮かびます。

その時にお世話になった兄弟は今でも頑張っていて、心強い限りです。感謝、感謝。

あっ、もちろん、躓いたことも何度もありました。でも、それは、私自身が信仰的に幼かったのですね。ホント。

 

それから、大きな声では言えませんが、某大学の大学院(修士課程)を中退し、事実上献身したのが1986年3月でした。

当時は冷戦真っ只中でしたので、いろいろと思い悩んだ結果、学費を献金としてお捧げしてしまったのです。

その後、穴埋めが出来なかったことから、ナント、抹席になってしまいました。ですので、正式な最終学歴としては大学院(修士課程)中退ではなく大学卒になります。^^;

 

まだまだ、3月にまつわるエピソードは続くのですが、長くなりましたので、今回はここまでとします。

 

つづく

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コメント: 2
  • #1

    田黒吾寛 (日曜日, 10 3月 2013 20:28)

    もったいない><

  • #2

    tenfukuroo (月曜日, 11 3月 2013 01:30)

    田黒吾寛様

    私も何度そう思ったことか・・・。

    ところが、その前後、実に様々な出来事が・・・。
    感動巨編の映画が出来るくらいありました。

    ちょこっとだけ触りを紹介しますと。

    霊界から私を導いた伯父さんがいます。
    第二次大戦の際、特攻隊で亡くなった方です。

    この方の恩給をいただいた、後に残された立正佼成会の篤実な信者の奥様(伯母)は、そのお金で立正佼成会の教会を建て、献堂されました。
    そして、その後は永年に渡り、その伯母さん自ら立正佼成会の教会長を務められました。

    国の為に生命を捧げた伯父さん。信仰の道に財産も生涯も全てを捧げて生き抜かれた伯母さん。
    この話を物心ついた時から、父から、私は何度も何度も聞かされました。

    高校生の時、いろいろと迷った挙句、選び、進学した大学からちょっと行った所に、立正佼成会の墓地が有りました。
    これは、入学後、父から教えられました。

    そして、何と、そこに、伯父さんの墓地もあったのです。

    後に、いの一番で伯父さんの特別解怨をしたところ、ある時、再臨協助して現れました。

    その時の言葉は・・・。

    みたいな・・・。
    全て脚色無し、むしろ、控えめに書いた実話です。

    ついでに書きますと。

    イサク献祭したそこでは、建築を学びながら、ゼミでは教育哲学を熱心に学びました。

    建築については、建物そのものよりも、人間をもっと研究したい、家庭を研究したい。世界を見渡しと生活と宗教とは切っても切れないのを知って、宗教も学びたい。と思っているところを導かれました。

    それなので、徹底して御言(統一原理と統一思想とファミリーのバックナンバー)を読み漁り、一つ一つ実践して確かめました。

    本当の意味で確信を得られるまで、正直、10数年かかりましたが。(汗)

    というわけですので、色んな意味で、導かれるためのステップとして大学と大学院とで学んだと受け止めています。


    などと書きながら、本音としては、すべて私の怠慢が原因で修士を治めることが出来なかったと反省しています。

    これは、信仰的捉え方という面ももちろんありますが、現実的にも本当にそうだったと受け止めています。